「○○天王~徳川家篇~」

松平家は、
室町中期頃から台頭した東三河の豪族である。
しかし戦国期には織田・今川に圧迫され、
存続のために常にどちらかに服従せざるを得なかった。
桶狭間の合戦後、
「三河の鷲」松平元康は今川家からの独立を果たす。
そして群立する松平一族を押さえるために徳川姓に改姓。
曰く、徳川家康と。
そして徳川家は家康の知略と家臣の団結により、
天下統一の偉業を果たすのである。

徳川四天王・・・徳川家康の覇業を支えた四人の名将

酒井忠次(1527~1596)

四天王の長老で、徳川創業随一の功臣。
主君・家康より十五年長で、
駿府での人質時代から側近兼家庭教師を務めていた。
徳川家とは血縁関係にあり、
家康第一の宿老として赫々たる戦歴を残す。
また、エンターテイナーとしての才能もあった。
忠次の踊る「蜆すくい」は、
明日の戦に緊張する武将達を爆笑させたものだった。

徳川四天王

四天王随一の武辺者で、徳川譜代の名門。
桶狭間における12歳の初陣から関ヶ原まで、
生涯57回に渡る戦で一度も手傷を負わなかった剛の者。
ちなみに愛用していた具足は、
動きやすさを重視した軽い造りのものであったという。
無類の戦上手で、常に合理的・現実的な判断を下していた。
無謀と勇気の違いを知る顕著な例であろう。
1572年の一言坂の戦いで、
退却する徳川軍の殿軍を務めて武田軍を一手に引き受ける。
この戦いの後、忠勝の武名は一挙に高まった。
「家康ニ過タルモノハ二ツ有、唐ノ頭ニ本多平八」
その後、長篠の戦いでは武田四名臣・山県昌景を討つ。
長久手の戦いでは3万8千の秀吉軍を僅か5百で牽制する。
武勇談の枚挙にはいとまがなく、
織田信長に「花実兼備の士」と称えられた。
「東国に本多忠勝あり、鎮西に立花宗茂あり、
 ともに天下一双の勇士なり」
豊臣秀吉にも、源義経の忠臣・佐藤忠信の兜を与えられた。
こうした合戦の強さにばかり着目しがちだが、
忠勝の真価は謀る事もできる「花実兼備」の万能さにある。
関ヶ原の合戦では井伊直政と共に、
西軍の毛利輝元の買収工作にあたって成功を収めている程だ。
他にも東軍の外様大名を統率するなど、
その活躍の幅の広さには計り知れないものがある。
得物は御存知「蜻蛉切」。
柄の長さ一丈三尺(約390cm)、
刃の長さ一尺四寸二分(約43cm)。
全長4mを越す長槍で、天下三名槍の一つに数えられる。
当然ながら重さも凄まじいもので、
晩年は老体の衰えを意識してか柄を三尺ばかり切り捨てた。
これもまた、合理性に基づいた実践論である。
ちなみに愛馬は「三国黒」という「松風」に並ぶ名馬。

榊原康政(1548~1606)

四天王の一人で、忠勝とは同い年。
大事に臨んで動じず、機を見るに敏。
人品高潔にして思慮深い、譜代きっての勇将である。
「無」の旗を掲げて馬を駆る、百戦錬磨のいぶし銀。
そして迎えた徳川政権の実現。
平和な時代の訪れと共に、主権を次代に委ねる。
引き際を知る武人であった。

井伊直政(1561~1602)

四天王の中では最も若輩かつ新参者。
沈着剛毅な覇業の功臣である。
武田家滅亡後、旧武田家臣を与力として預かった。
山県昌景率いた「赤備え」にあやかり、軍装を赤に統一。
常に先鋒を受け持ち、精強を誇る。
後に「井伊の赤鬼」と呼ばれた。
さて。
烈しい生き方が寿命を縮めた井伊直政。
その体には生傷が絶えませんでしたが、
若い頃は大層な美少年だったのです。

両半蔵・・・徳川軍にて抜群の槍働きを示した二人の半蔵

服部半蔵(1542~1596)

「鬼の半蔵」。
本名は正成。
藤林・百地に並ぶ伊賀上忍三家の一つ、
服部の宗家を半三保長の五子でありながら相続する。
兄弟達の中で、最も「槍が」得意だったからだ。
1562年の三河上ノ郷攻めで初陣を飾り、
その功名で家康から槍一筋を賜った半蔵に父・保長は言った。
「透波や乱波はワシ一代でとどめ、
 お前は槍働きで御奉公せよ」・・・と。
そう。
この時代、
忍者の仕事は「影働き」としか評価されないのである。
槍働きよりは一段下に見られていたのである。
「・・・御意」
父の期待に応え、
半蔵は「武士として」姉川・三方ヶ原などに参戦。
「鬼半蔵」と武勇を称えられた。
ところが運命の1582年。
「伊賀越」にて伊賀忍者を先導して家康を助けてしまい、
この活躍が災いして伊賀忍者200人の頭領に任命されてしまう。
「鬼半蔵」は影働きに逆戻りし、
知行も8千石と十六神将では最低格の扱いにとどまった。
トホホ~・・・(笑)
ちなみに息子の正就は家康の異父妹を娶っているので、
半蔵は家康と同い年の「義叔父さん」にあたる。

渡辺守綱

「槍の半蔵」。
1562年に家康が三河八幡の合戦で今川軍に敗れた際、
後尾にあって奮戦し「槍半蔵」の異名を取る。
三河一向一揆に加担するも、許されて帰参。
姉川の戦いで旗本一番槍を挙げ、その勇名を不動にした。
長篠や小牧・長久手でも力戦している。
後に家康の九男・義直に仕えた。



徳川十六神将・・・徳川家康の覇行に貢献した名臣

酒井忠次(1527~1596)

徳川四天王を参照。

本多忠勝(1548~1610)

徳川四天王を参照。

榊原康政(1548~1606)

徳川四天王を参照。

井伊直政(1561~1602)

徳川四天王を参照。

松平康忠(1545~1618)

松平元康(徳川家康)の従弟。
母の再婚相手が酒井忠次であるため、酒井軍に属する。
四天王と同格の扱いを受けており、
嫡男が死去した後は家康・六男の忠輝を養子とした。

服部半蔵(1542~1596)

両半蔵を参照。

渡辺守綱

両半蔵を参照。

内藤正成(1528~1602)

徳川軍きっての弓の名手。
那須の与一もかくやという達人だが、
そのポジションを「無双」では稲姫に奪われる。
ちなみに那須の与一と同様の逸話がある。

高木清秀(1526~1610)

前半生を家康の伯父・水野信元に仕え、
織田家の陪臣として家康と戦い続けた。
後に佐久間信盛に仕え、1582年から家康に仕える。
よって徳川家臣として活躍した期間は短いのだが、
小牧・長久手の合戦にて正成と共に弓箭功者と評された。

大久保忠世(1532~1594)

家康の父・広忠の代に活躍した蟹江七本槍。
自立間もない家康の下、
一丸となって三河一向一揆と戦った大久保一族の棟梁。
1573年の三方ヶ原での敗走時、
武田軍に夜襲をかけて武田信玄に武勇を賞賛される。
長篠の合戦でも信長の目に止まり、賞賛された。
「よき膏薬のごとし、敵に付いて離れぬ膏薬侍なり」
武辺一途なだけでなく、
帰り新参の本多正信に手織りの袖を贈る思いやりの深い人物。
その性格が嫡子・忠隣に受け継がれた事が災いし、
「大久保長安事件」では息子が本多正信に謀殺される事に・・・。

大久保忠佐(1538~1614)

家康の父・広忠の代に活躍した蟹江七本槍。
忠世の次弟。
末弟は「三河物語」の著者である忠教。
(通称は彦左衛門。
 「大久保彦左衛門と一心太助」で知られる義侠の士)
福釜城で柴田勝家を撃退し、
長篠の合戦では獅子奮迅の活躍で信長に舌を巻かせた。
生涯無傷の武運に恵まれた剛の者であるが、
敢えて跡目を立てずに家名は断絶した。

鳥居元忠(1539~1600)

家康の幼少の頃からの遊び相手。
桶狭間での戦功に軍忠状を与えようとする家康に、
「他家に仕官する気はない」と断った忠勇の士。
その後も、
姉川・三方ヶ原・長篠・甲斐征伐・小田原征伐など主な戦で活躍。
関ヶ原では石田三成挙兵を予想した家康と別れを交わし、
囮として宇喜多秀家・小早川秀秋の大軍の前に散った。

鳥居元信(?~1572)

元忠の弟。
別名に忠広・直忠・忠宗など。
三河一向一揆で一揆に加担するも、後に許される。
姉川の合戦では先鋒を務めた。
三方ヶ原の合戦にて、
家康に「勝負を知らざるは大将の恥」と言い残して敵陣に突撃。
そのまま討ち死にした。

平岩親吉(1542~1611)

家康が今川家の人質であった頃からの遊び相手。
その後も家康に付き従い、多くの戦に参加した。
家康の嫡男・信康の傅役となるも、
武田方と内通したとして謀殺された責任を感じて自己謹慎。
(ちなみに、この際に信康の介錯を務めたのが服部半蔵。
 半蔵は号泣して任務を果たせなかったという)
後に家康の度重なる出仕要請に応えて復帰。
家康の八男・仙千代を養子として迎える約束をするなど、
(仙千代が夭逝したために果たせなかったが)
家康からの並々ならぬ信頼が伺える。
その後、家康の九男・義直の傅役となった。

蜂屋貞次(1539~1564)

桶狭間の合戦では丸根砦攻めに加わる。
三河一向一揆で家康に敵対するも、後に許されて帰参。
吉田城攻めにて本多忠勝と先陣争いをした末に討ち死にした。

米津常春(1524?~1612)

忠勤一筋ながらも弱視というハンデを持ち、
1564年を境に史料からは姿を消している。

真田信之(1566~1658)

真田幸村の兄で稲姫の夫。
多くの武将達の興亡を見て来た「最後の戦国武将」。
初名は信幸だが、関ヶ原戦以後は信之と改名した。
初陣は1585年の上田城の合戦。
弱冠19歳でありながら、天下の徳川軍を翻弄した。
1589年には駿府城の家康に出仕。
その剛胆振りを見せつけるエピソードがある。
「稲姫の夫となる人物を選ぶ席に、
 信幸以下多くの大名の子弟が呼ばれていた。
 平伏している若侍達の髷を掴んで、
 顔を上げさせて品定めをする稲姫。
 屈辱ではあるが、徳川重臣の娘には逆らえない。
 ところが、信幸だけは持っていた鉄扇で稲姫の手を払った。
 稲姫は信幸を気に入り、信幸に嫁ぐ事を決めたと言う」
さて。
家康の養女であり、忠勝の娘である稲姫を娶った信幸。
以後は徳川家家臣として組み込まれて行く。
そして1600年の関ヶ原。
父弟とは袂を分かち、東軍に参陣。
徳川秀忠の下で、上田城で父弟と対峙する事に。
義弟・本多忠政と共に降伏勧告の使者となるも失敗。
それでも信幸を疑う者が居なかったと言うから、
秀忠はじめ徳川軍の諸将が、
いかに信幸の篤実な人柄を信頼していたかがわかる。
だが。
関ヶ原遅参を境に、秀忠は信之を憎むようになった。
家康が没した後の1620年。
小松殿(稲姫)が病死した際には、
信之は「我が家の灯火が消えた」と嘆いたと言う。
徳川家との橋渡しが、これで途絶えたのだ。
そのため、1622年には上田から松代へ移封。
あの川中島である。
水害も多く米の収穫も望めない、事実上の左遷であった。
(ちなみに松代は森蘭丸の次兄・長可と末弟・忠政の旧領)
ところが、この信之。
余程ストレスの溜まらない性格であったらしい。
「祖父さんが建築に関わった海津城があるんだよ。
 善光寺や姨捨だって俺の領地なんだぜ? スゲぇよ!」
松代を気に入ったという手紙を姉や友人などに送っている。
その後も激動の日々は続いたが、結局92歳まで生きた。
現代ですらかなりの長寿である。
本当にストレスが溜まらない性格であったとしか思えない。
(年老いてもバリバリの現役だった)
ちなみに「無双2」では本多忠勝が信之を気に入るイベントがあり、
「誠実そうな若者」と評して稲姫を嫁がせることを決めた模様。
確かにゲーム中の「いなちん」は、
殿方のチョンマゲを大根でも抜くように扱う無礼はしない(笑)。


お銀氏提供

戦国無双[武将]完全攻略