「傾奇者」

出雲の阿国(1573?~1607?)

言わずと知れた歌舞伎の開祖。
出生は諸説あるが、
取り敢えず「戦国無双キャラクターズ真書」に準拠する。
鍛冶屋の娘で出雲大社の巫女であるとする。
じゃあ、1603年に16歳を自称していたのは?
「彼女は美人ではなかったが」
こんな記述が「当代記」に残されている。
当時の16歳は、現代では15歳。
30歳のおば・・・御婦人が15歳を自称したと。
・・・そりゃあ美人とは形容せんわ。
さて。
この記述、
1603年に阿国が「かぶき踊り」を始めた時の事。
しかしながら、
1600年には未だ「ややこ踊り」を踊っていたのである。
(お菊とクニという二人の女性が舞を披露したとある。
 このクニが阿国と同一人物なのかは不明だが、
 キャラクターズ真書では同一人物とみなしているので)
この空白の3年間に、
歌舞伎が生み出される事になったという訳だ。
彼女に「かぶき風」を吹き込んだのが、
愛人であった天下の傾奇者・名古屋山三郎九右衛門である。

「商人」

千利休(1522~1591)

千家流茶道の開祖。
堺の豪商出身。
信長に茶頭として仕えたのち、秀吉にも重用。
後に秀吉との関係が悪化し、切腹を命じられる。

今井宗久(1520~1593)

戦国どてらい男。
早くから信長に注目し、堺と信長の和解に尽力。
裸一貫から天下第一の政商に成り上がった。

神屋宗湛(1551~1635)

大陸貿易を独占し、
堺と双璧をなす商業都市であった博多の豪商。
大友と毛利の争奪戦で焦土と化した博多の復興に奔走した。

茶屋四郎次郎(1545~1596)

三方ヶ原・伊賀越えの二度に渡って、
徳川家康の命を救った三河武士。
京の三長者といわれる茶屋の礎を築いた豪商。

「絵師」

長谷川宗仁(1539~1606)

画家で茶人。
信長に仕え、奉行・代官職を務めた。
本能寺の変の訃報を秀吉に伝えたという。
茶人としては「法眼」の位に叙された。

長谷川等伯(1539~1610)

長谷川派の開祖。
千利休ら堺の人脈を通じて秀吉の庇護を受けた。
代表作は「松林屏風」「秋に松草図屏風」「楓図襖絵」など。

狩野永徳(1543~1590)

狩野派の完成者。
安土城天主閣や聚楽第・大坂城の障壁画を描いた。
代表作は「洛中洛外図屏風」「唐獅子図屏風」など。

本阿弥光悦(1558~1637)

芸術の才に溢れ、特に書道は「寛永の三筆」と称された。
「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」などの優れた和歌巻・和歌色紙を残す。

「宗教人」

朝山日乗(?~1577)

法華宗の僧侶。
信長に用いられ、皇居増築や外交などを担当。
キリシタンを憎み、信長の前でフロイスと宗論を戦わせた。

快川紹喜(?~1582)

臨済宗の僧侶。
武田信玄に招かれ恵林寺に入り、外交でも活躍。
信長に攻められた際、
「心頭滅却すれば火もまた涼し」と名言を残した。

多聞院英俊(1518~1596)

奈良興福寺多聞院の院主。
歴代院主が書き継いだ「多聞院日記」の著者の一人。

沢庵宗彭(1573~1645)

臨済宗の僧侶。
京都大福寺で禅の修行を積む。
細川幽斎に和歌を学び、書画や茶道にも造詣が深かった。
吉川英治「宮本武蔵」では武蔵の師匠である人。
実は稲姫と同い年である。

「宣教師」

フランシスコ・デ・ザビエル(1506~1552)

イスパニア北部ナヴァラのザビエル城主の子。
パリ留学中にイエズス会を結成し、
マルティン・ルター等の宗教改革に反撃。
カトリック勢力の失地回復を目指し、
東洋にて精力的な布教活動を続けた。

ルイス・フロイス(1532?~1597)

リスボン生まれのポルトガル人。
上洛した信長から南蛮での布教を許される。
「日本史」を編纂後、
キリスト教への弾圧が深まるなか長崎で没した。

ルイス・デ・アルメイダ(1525~1583)

リスボン生まれのポルトガル人。
貿易のかたわら、宣教師として布教活動に励む。
大友宗麟の援助を得て、
洋式病院を開設するなど医療でも貢献した。

ネェッキーソルド・オルガンティーノ(1530~1609)

イタリア人。
フロイスの後任として都地区上長となる。
他の宣教師とは異なり、
日本人と日本文化を絶賛していた親日家。
「宇留岸様」と人々に親しまれ、
信長の厚遇を得て京都教会を建設した。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(1538~1606)

イタリア人。
イエズス会総長の名代たる東インド巡察師として来日。
日本の実状に即した布教方針を確立し、日本人司祭養成を図った。
信長から非常に厚遇され、
正親町天皇にすら譲らなかった「安土城屏風」を贈られている。

「剣豪」

宮本武蔵玄信(1584~1645)

剣だけでなく人生をも極めた大剣豪。
十手の使い手であった新免無二斎の子として、
美作(播磨とも)に生まれたとされる。
(異説あり)
12歳にして有馬喜兵衛をパワーボム(笑)で破り、
これを皮切りに様々な剣士と試合を重ねて全勝。
28歳の時には、
かの有名な厳流島の決闘で佐々木小次郎を破っている。
これ以後は各地を転々とし、
剣の探求を行いながら仕官先を求めた。
しかし、
仕官するにあたって要求した知行は1000石以上。
これが剣術指南としては平均の5倍に相当し、
剣術家としての武名は高かったにしても吹っかけ過ぎだった。
また「勝つためには何でもやる性格」が、
戦国乱世の終わった時代に登用を躊躇わせたのだろう。
武蔵が紆余曲折を経て細川忠利に客分として招かれたのは、
漂泊の日々が30年に達せんとする1640年の事だった。
この年、56歳。
61歳で没する5年前の晩年である。
それから武蔵は勝利ではなく剣理を追い求め、
安住の地にて様々な絵や兵法書を残した。
その中の一つが有名な「五輪書」であり、
現在でもビジネスマン必読の書として国内外で愛読されている。

佐々木小次郎(?~1612)

詳しい伝承は残されておらず、
宮本武蔵の伝記「二天記」では越前の出身とされている。
その「二天記」によれば、
厳流島で武蔵と決闘したときには17歳であったらしい。
(当時の『数え』年齢だと18歳となる)
もっとも「二天記」が書かれたのは武蔵の死後120年のこと。
当然ながら武蔵ひいきな記述が目立つため、
必ずしも正確なものとは言えず信憑性は薄い。
近年では九州国人説が有力であり、
年齢も武蔵と同年齢か上であったとするのが通説。
(70歳以上であったという説もある)
また、小次郎の使った剣にも謎が多い。
戦国時代の有名な剣客・富田勢源について修行した。
・・・というのが通説だが、
勢源ではなく弟子の鐘巻自斎に師事したともいわれる。
ちなみに勢源も自斎も小太刀の名手であったのだが、
小次郎は師の組太刀の稽古相手として大太刀を使用した。
そうした日々に大太刀に開花し、
独立後は細川忠興に仕え剣術指南役となる。
その後、1612年に宮本武蔵と厳流島で決闘。
ここで『武蔵に破れ』死亡したというのが通説だが、
実は決闘では死ななかったという説がある。
小次郎は細川家に疎まれており、
決闘で疲れきったところを細川の伏兵が謀殺した。
(「無双」みたいな危険人物だったから?w)
もしくは武蔵の弟子たちが寄ってたかって斬り殺した。
・・・しかしながら、真相は闇の中。
生まれも死も謎に包まれた人物である。
ちなみに小次郎といえば長刀「物干し竿」から繰り出す、
「燕返し」という秘剣があまりに有名なのだが・・・。
実は、
「燕返し」ではなく「虎切(こせつ)」という秘剣だったそうな。
フェイントの初太刀から二の太刀を繰り出す。
このコンセプトは共通しているのだが、
上下の「燕返し」とは異なり「虎切」は左右に剣を振ったという。
確かに上から振り下ろした刀を持ち上げるより、
横に払った剣を逆方向に再び払う方が速くて理に適っている。
でも「無双」では「燕返し」を使い、
しっかりラ○バ・ラルの如く返り討たれるのだった(笑)。

足利義輝(1536~1565)

室町幕府13代将軍。
塚原卜伝に剣を学び、免許皆伝。
名刀コレクターであった事も相まって、
「剣豪将軍」と呼ばれた。
松永久秀に急襲された際には抜刀して奮戦するも、
多勢に無勢で力及ばず自害した。

荒木又右衛門保知(1599~1638)

三大仇討ち「伊賀越仇討」で知られる剣客。
一説には柳生十兵衛に剣を学んだとされる。
郡山藩で250石の知行で剣術指南を務めた。

伊東一刀斎(1550?~?)

一刀流の創始者。
諸国遍歴して修行を積み、
「夢想剣」などの秘技を編み出した。

小野善鬼(?~1592)

伊東一刀斎の一番弟子。
初め大坂淀川で船頭をしていたが、
一刀斎と出会って剣術を学んだ。

小野次郎右衛門忠明(1569?~1628)

小野派一刀流の創始者。
最初、神子上典膳と名乗り安房里見家に仕えた。
諸国を遍歴し、伊東一刀斎に師事。
兄弟子・小野善鬼を倒して一刀流の奥義を伝授された。
1593年頃、
名声を聞きつけた徳川家康に召抱えられる。
200石の知行で秀忠の剣術指南役を務めたが、
あくまで実践志向で将軍相手にも態度を軟化させなかった。

小野次郎右衛門忠常(1608~1665)

忠明の長男。
父の跡を継ぎ、徳川家光の剣術指南役を務めた。

可児才蔵(?~1613)

宝蔵院胤栄の弟子。
初め斎藤龍興に仕え、
のち織田信長・明智光秀・織田信孝・羽柴秀次・前田利家。
最終的には福島正則に仕え、
関ヶ原では東軍随一の17首を挙げる。
討ち取った首級すべてに笹を差して目印としたため、
天下に「笹の才蔵」の異名を轟かせた。

鐘捲自斎(生没年不詳)

鐘捲流の創始者。
富田勢源に師事して中条流を極める。
北条家で剣術指南役も務めた。
井上雄彦著「バガボンド」では、
佐々木小次郎の師匠とされている。

上泉信綱(生没年不詳)

新陰流の創始者。
長野業正に仕え、
落城後は諸国を遍歴した。

高坂甚内(?~1603)

武田家に仕えた忍者頭目。
主家滅亡後は攝津に逃れ、
のち宮本武蔵に師事するも破門となった。

古藤田俊直(生没年不詳)

唯心一刀流の創始者。
北条氏政・氏直に仕え、
北条家滅亡後は戸田氏信の剣術指南役となった。

斎藤伝鬼坊(1550~1587)

天流の創始者。
塚原卜伝の門下で、
鎌倉の鶴岡八幡宮に参籠して奥義を悟ったという。

佐分利猪之助重隆(生没年不詳)

佐分利流槍術の創始者。
富田午生に師事して槍術を学んだ。

宍戸梅軒(生没年不詳)

鎖鎌の達人であったとされるが、
その流派や実名は不詳(梅軒は吉川栄治の命名)。
伊賀で宮本武蔵に敗れたとされる。

塚原卜伝(1490~1571)

新当流の創始者。
鹿島新宮の子として生まれ、諸国を遍歴。
19度の真剣勝負で無敗を誇る。

東郷重位(1561~1643)

薩摩示顕流の創始者。
島津家に仕える。
若い頃に君主・島津義弘の上洛に従事し、
そこで出会った善吉和尚に伝授された剣技をアレンジ。
強烈無比な太刀を編み出し、
1599年もしくは1604年に剣術指南となる。
薩摩示顕流は薩摩に根付き、門外不出の剣となった。

富田景政(生没年不詳)

兄・勢源とともに富田流の創始者。
中条流剣術を学び、のち前田家に仕えた。

富田重政(1554~1625)

富田流剣術の達人で、通称「名人越後」。
前田家に仕えた。

富田勢源(1524~?)

富田流の創始者。
斎藤龍興の剣術指南役を務めた。
一説には佐々木小次郎の師匠とされる。

根岸兎角(生没年不詳)

微塵流の創始者。
師岡一羽に師事し、江戸で道場を開く。

林崎甚助重信(1542?~?)

居合道の創始者。
13歳にして、
長柄の刀による神夢想林崎流抜刀術を開眼した。
4年後、
闇討ちにあった父・浅野重治の仇討ちのため旅に。
19歳時に本懐を遂げ、
その後は諸国を遍歴して居合道を普及させた。
「戦国無双」では何食わぬ顔で明智光秀が抜刀術を使うので、
おそらく若き日の林崎甚助に直接教わったのだろう。

疋田豊五郎(1536~1605)

疋田新陰流の創始者。
上泉信綱に新陰流を学び、
若き日の柳生石舟斎宗厳に勝利した話が有名。

樋口又七郎定次(生没年不詳)

木曽義仲四天王・樋口次郎兼光の子孫。
念阿弥慈音の剣術、念流を復活させた17代目。

宝蔵院胤栄(1521~1607)

宝蔵院流槍術の創始者。
柳生石舟斎宗厳とともに、
新陰流・上泉信綱に剣術を学んだ。

真壁氏幹(1550~1622)

塚原卜伝の弟子。
無双の怪力で刀槍の代わりに約3mの木杖を振り回し、
「鬼真壁」と恐れられた。
佐竹義重の盟友であり家臣。

師岡一羽常成(1532~1593)

塚原卜伝の弟子。
また、父には神道流を学んでいた。
門弟に根岸兎角・岩間小熊・土子土呂助がいる。

柳生十兵衛三厳(1607~1650)

宗矩の長男。
12歳の時に徳川家光の小姓として仕える。
武芸好きで年が近い家光との仲は良好であったのだが、
1626年に何故か関係が悪化。
十兵衛は出仕を差し止められ、
1638年までの空白の12年間を過ごすことになる。

柳生石舟斎宗厳(1527?~1606)

柳生新陰流の創始者。
畿内随一の剣豪として武名を馳せたが、
上泉信綱の高弟・疋田豊五郎に完敗。
信綱に入門し、「無刀取り」の極意を会得
のち徳川家康に招かれ、
柳生家は徳川家の兵法指南役となった。
ちなみにカプコン「鬼武者2」の主人公、
柳生十兵衛のモデルは若き日の石舟斎である。

柳生兵庫助利厳(1579~1650)

尾張柳生の創始者。
祖父・石舟斎より柳生新陰流の道統を受け継いだ、
柳生一族の中でも最強の呼び声高い剣術家。
一時加藤清正に仕えるも牢人。
諸国を遍歴し、
1615年に徳川義直の剣術指南役となった。

柳生宗矩(1571~1646)

石舟斎の五男。
大和国の一豪族に過ぎなかった柳生家を、
大名にまで押し上げた功労者。
徳川家の兵法指南役となり、
秀忠や家光に柳生新陰流を伝授した。

吉岡憲法(生没年不詳)

14代将軍・足利義昭の剣術指南役。
また京都で染物屋も経営していた。

吉岡清十郎(?~1604?)

憲法の嫡子。
京都の吉岡道場で名声を博したが、
宮本武蔵と戦い惨敗。

吉岡伝七郎(?~1604)

清十郎の弟。
宮本武蔵に決闘を挑み、
あえなく敗れて落命した。



お銀氏提供

戦国無双[武将]完全攻略