「龍造寺家」
出自は諸説紛々あるが、藤原氏の流れであるらしい。
十九代当主・隆信の時代に全盛期を迎えた。
肥前の国を統一して九州に覇を唱えたが、
島津家の北伐を防ぎきれず弱体化した。
龍造寺隆信(1529~1584)
通称「肥前の熊」。
剛勇無双な猛将であった。
また知勇兼備の軍師・鍋島直茂の助力を得て、
肥前内の反龍造寺勢力を一掃。
有力大名にのし上がる。
1570年の今山合戦で起死回生の勝利を手にし、
九州北西部を席巻した。
大友を抜き、九州覇権争奪戦の第一人者になったのだが、
1584年に有馬家が島津義久に協力を求めて謀反。
隆信は怒りに震えて沖田畷にて対陣するが、
義久率いる鉄砲隊の一斉放火の前に大敗。
本陣も島津決死の抜刀隊に襲われ、隆信は非業の死を遂げた。
鍋島直茂(1538~1618)
智某・勇猛・博識と、三拍子揃った稀代の名将。
二度に渡る大友宗麟の肥前侵攻を食い止め、
六万余の大友軍の包囲を僅か800の兵による夜襲で撃退した。
沖田畷にて主君・隆信が死ぬと、徐々に龍造寺家の実権を握る。
やがて主家に取って代わり大名となった。
織田家に対する秀吉のようなものである。
成松信勝(1545?~1584)
龍造寺に成松信勝ありの武名を馳せた、龍造寺四天王の一人。
1570年の今山合戦で決死の夜襲隊に参加し、
敵大将・大友義貞の首級をあげた龍造寺の救世主。
その後も獅子奮迅の活躍をするが、
1584年の沖田畷で隆・信討死の報を聞くや、
群がる島津兵の真っ直中に突入。
隆信の後を追って討ち死にした。
お銀氏提供
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