「○○天王~織田家編~」

平氏の嫡流・平重森の次男、
資盛の末裔と伝えられる越前織田荘出身の豪族。
室町期には尾張の守護代を務め、
戦国期に入ると守護代家の番頭であった信秀が実権を握る。
その嫡男・信長は天下統一直前に横死。
信長に匹敵する器量を有する後継者はなく、
小大名として数家が残った。

信長四天王・・・織田信長軍団の最高幹部

明智光秀(1528?~1582)

通称「金柑頭」。
美濃の名門と伝えられるが、その前半生は不詳。
1556年の斎藤義龍の反乱で領地を追われ、
翌年から身重の妻達を連れて諸国遍歴の旅へ。
1562年に、
越後の朝倉義景の陪臣として一揆平定に功があったとされる。
学識に優れ、鉄砲名人でもあったために推挙されたそうな。
ちなみに鉄砲の腕前は超人的で、
それが義景の目に止まって100人の鉄砲部隊を任された。
1565年に朝倉家を離れ、
翌年に稲葉山城に到着して織田信長に仕えたらしい。
1568年には足利義昭と信長の間を取り持った。
その後の戦果は華々しく、
新参者ながら織田家の最高幹部に上り詰める。
本能寺の変を起こした動機は未だ不明。
山崎の合戦で羽柴秀吉に敗れ、
逃亡中に落ち武者狩りの農民に討たれた。
なお、天海僧正として生き延びたという説もある。

柴田勝家(1521?~1583)

通称「瓶割り柴田」
織田家随一の猛将。
信長の父・信秀に仕え、
信長の弟である信行の傅役(主君の子の世話役)として仕えた。
信行の求めに応じて信長に反逆したが、
戦いに敗れて降伏した後は信長に忠誠を誓った。
清洲会議では秀吉と対立し、
信長の三男・信孝の勧めで信長の妹・お市の再婚相手となる。
賤ヶ岳の合戦での敗北後、
お市をはじめとする愛妾を全て斬り殺して自害した。

丹羽長秀(1535~1585)

通称「米五郎左」。
柴田勝家に並ぶ、信長軍団のツートップ。
(ちなみに「羽柴」は「丹羽」と「柴田」である)
ある特定の方面のスペシャリストではなく、
何でもこなせる応用範囲の広い万能の人であった。
最も信長の信頼篤く、
二代に渡って信長が娘を与えた唯一の武将である。
野心のない温厚な人物で、
本能寺の変の際には大坂にいたにも関わらず秀吉に手柄を譲る。
徹底した実力主義という信長の遺志に従ってか、
信長の幼い嫡孫を擁する「下心丸見え」の秀吉を支持した。

滝川一益(1525~1586)

一説には前田慶次の実父とされる。
(もしくは従弟の益氏)
忍者で有名な甲賀の出身で、鉄砲の名手。
実力主義の織田家中でメキメキと頭角を現した。
しかし本能寺の際に関東で北条家に敗れ、
清洲会議に出席する事すらできず地位は没落。
勝家・信孝滅亡後も秀吉相手に孤軍奮闘したが降伏。
その後は隠遁し、数年後にこの世を去る。

美濃三人衆・・・美濃斎藤家を支えていた三人

稲葉一鉄(1515~1588)

美濃きっての名将。
斎藤道三に仕えるも、嫡孫・龍興を見限って信長に仕える。
その後の戦果は華々しい。
ちなみに「頑固一徹」の語源となった人である。

氏家ト全(?~1571)

美濃三人衆の一人として連名で治世に務め、
斎藤家中で重きをなすも信長に降る。
伊勢長島の一向一揆討伐にて、
負傷した柴田勝家に代わって殿を務めて討ち死にした。

安藤守就(?~1582)

天才軍師・竹中半兵衛の舅。
信長に降るも、
1580年に武田内通の嫌疑によって追放。
本能寺の変に際して再起を図るも、
稲葉一鉄父子の手で討たれる。

府中三人衆・・・北陸軍団長・柴田勝家の目付役

前田利家(1538~1599)

前田慶次の義理の叔父。
信長親衛隊たるエリート集団「赤母衣衆」が一。
傾奇者として名高く、
若き日は6メートルの槍を持ち歩いていたという。
「戦国BASARA」ではプレイヤー武将になった。
彼が出世したのは武によるものではなく、
常に仲間内でのケンカを宥める穏和な人格による所が大きい。
若き日にヤンキーぶりがたたってリストラされ、
その後の貧乏暮らしでマジメなサラリーマンに更正したのだ。
ちなみに貯金が趣味で、それを嫁さんのまつに説教されている。
秀吉政権では、秀吉の片腕として尽力。
「百姓あがり」と侮られがちな秀吉を支え続けた。

佐々成政(1539~1588)

信長親衛隊たるエリート集団「黒母衣衆」が一。
稲生の戦いから信長に従う。
1584年には織田信雄・徳川家康に呼応。
和議後も徹底抗戦を貫き、秀吉方の前田利家と戦う。
降伏後は肥後を与えられたが、
その統治の不手際を理由に切腹させられた。

不破光治(?~1580)

美濃三人衆の「+α」である「美濃四人衆」の四番目。
信長上洛に際しては、足利義昭を迎える使者となる。
その後、柴田勝家の与力となった。

織田四家老・・・清洲会議で信長亡き後を守るべく選ばれた四人

柴田勝家(1521?~1583)

信長四天王を参照。

丹羽長秀(1535~1585)

信長四天王を参照。

池田恒興(1536~1584)

信長の乳母・養徳院の息子。
幼い頃から信長に仕え、桶狭間の戦いで功を上げている。
特に目立つ武将ではないが、家中の信頼は篤かった。
羽柴秀吉の「中国大返し」に呼応し、山崎の合戦後は秀吉に従う。
その後、小牧長久手の合戦で女婿の森長可と共に討ち死にした。

羽柴秀吉(1536~1598)

通称「禿げ鼠」。
後の天下人「太閤・豊臣秀吉」。
貧農の家に産まれ育ち、当初は今川家臣・松下加兵衛に仕える。
その後、信長の草履取りからトントン拍子で出世。
決して武には長けていないが、
常に力強い協力者が現れる人間的な魅力を有していた。
金ヶ崎撤退戦で抜群の働きを示し、
3年後に浅井・朝倉を滅ぼした際には12万石の大名に取り立てられた。
本能寺の変を境に、天下取りへの拍車がかかる。
対抗馬の柴田勝家を倒した後、
徐々に織田家をないがしろにして自分の権勢を固めていった。
四国・九州・関東・東北に臣下の礼をとらせ、
信長が達成できなかった天下統一を成し遂げる。
ちなみに、信長に「猿」と呼ばれていた史実はない。
出世した秀吉を妬む者達が、
「百姓あがりが偉そうに」という意味合いで使っていた悪口である。
天下人となった後、
秀吉は己を「猿」と呼ぶ者を容赦しなかったそうな。

明智五宿老・・・明智光秀の重臣

明智秀満(?~1582)

光秀の右腕。
一説に光秀の甥とも従弟の光春ともいわれ、
三宅藤兵衛の息子ともいわれる・・・要は謎の人物。
光秀の長女(綾戸・倫子など)の再婚相手であり、
どの出生でも光秀の義理の息子ではある。
通称は左馬助・・・カプコンの「あの人」だ。
金城武が演じた「鬼武者」では甥という事になっている。
その「鬼武者」では、
1537年産まれ説と1557年産まれ説の両方に対応。
不老の人物として処理されている。
山崎の合戦での敗戦後、
一族と共に自刃したとも細川家・寺沢家に仕えたとも。
光秀が天海僧正として生き延びたという説があり、
それは本当は秀満であったという説もあるが・・・謎が多いなあ。

明智光忠(?~1582)

光秀の叔父・光久の子とも農民の子ともいわれる。
つくづく明智家は謎に包まれているなあ。
本能寺の変に際し、二条御所の織田信忠を攻めるも負傷。
山崎の合戦での敗北を知るや自刃した。

斎藤利三(?~1582)

母は光秀の妹とされるも不詳。
道三が下克上によって名乗った「新斎藤」ではなく、
下克上された美濃守護代「古斎藤」の血を引く。
妹は「土佐の出来人」長宗我部元親の室である。
元は稲葉一鉄に仕え、
その娘との間に三存・利光・福(後の春日局)をもうけた。
山崎の合戦では中央先陣を務めるも敗れ、
潜伏中に捕らわれて斬される。

藤田行政(?~1582)

山崎の合戦に際し、筒井順慶の説得に当たるも失敗。
本陣右備を務め負傷し、淀まで退却するも自刃した。

溝尾茂朝(?~1582)

光秀の流浪時からの家臣。
三沢秀次と同一人物か?
家康上洛時には光秀と共に饗応を務め、
山崎の合戦後には光秀の介錯をしたと伝えられる。
その後、自刃した。

明智三羽烏・・・本能寺で信長に槍をつけた三人の猛者

安田作兵衛(?~?)

後に天野源右衛門と改名。
本能寺の変にて森蘭丸の首級をあげた猛者。
蘭丸の十文字槍に「大事な所」を貫かれながら、
右手の刀で蘭丸の体をすくい上げて斬ったのだとか。
後、羽柴秀長・羽柴秀勝・蒲生氏郷に歴任。
九州平定に際して立花宗茂に属して功あり。
その後、肥前の寺沢家に仕えた。

古川九兵衛(?~?)

明智家滅亡後、
他の二人と同様に諸家に仕えたとされるも不詳。

箕浦大蔵丞(?~?)

山崎の合戦後、羽柴秀長家臣を経て紀州の浅野家に仕えた。

賤ヶ岳七本槍・・・対柴田における羽柴軍にて軍功の大きい七人

福島正則(1561~1624)

七本槍の筆頭。
羽柴秀吉の年の離れた従弟。
9歳の時に加藤虎之助(清正)と共に秀吉に預けられる。
幼い頃から怪力の持ち主で、
とにかく戦場では先頭をきって敵陣に突撃する猛将であった。
秀吉の死後、石田三成をはじめとする吏僚派と対立。
関ヶ原の合戦では徳川家康に味方し、
多くの武将を東軍に呼び込むきっかけをつくる。。

加藤清正(1562~1611)

秀吉の遠縁。
朝鮮の役で虎を退治した豪傑。
その際に折れて片鎌となった槍を愛用したという。
関ヶ原では、
秀吉の遺児・秀頼を三成の野心から守るべく東軍に参加。
(福島正則もそうだが、
 石田三成が幼い秀頼を利用していると見ていた)
戦後も豊臣への忠誠心は変わらなかったが、
家康から秀頼を守るべく臨んだ二条城の会見から二ヶ月後に変死。
徳川家に(依頼された「あずみ」に(笑))暗殺されたという説もある。

加藤嘉明(1563~1631)

秀吉子飼いの武将の一人。
水軍の指揮を任され、兵糧の輸送を担当したりした。
秀吉死後は徳川家康に従い、家名を明治まで残した。

平野長泰(1559~1628)

20歳ごろに秀吉の家臣となった。
関ヶ原の戦いでは東軍に属し、
後に二代将軍・徳川秀忠(家康の三男)の家臣となる。

脇坂安治(1554~1626)

16歳で豊臣秀吉に仕える。
関ヶ原では、
西軍・大谷吉継(真田幸村の義父)の指揮下で戦う。
小早川秀秋の裏切りに際しては、生きるために東軍に寝返った。

糟屋武則(?~?)

秀吉に幼い頃から仕える。
関ヶ原の戦いでは西軍に味方したが、
2年後に5百石の旗本として徳川幕府に召し抱えられた。

片桐且元(1556~1615)

近江の生まれで、
浅井家滅亡後に秀吉の小姓として仕えた。
文武両道の武将で、内政や外交でも活躍している。
秀吉の死後は秀頼の補佐役となるも、
「方広寺鐘銘事件」を引き起こすきっかけを作ってしまう。
豊臣家と徳川家の間で板挟みとなり、大坂城を去った。

篠原まつ(1546~1617)

五大老・前田利家の従妹であり正室。
羽柴秀吉の正室・ねねとは旧知の仲。
聡明で教養深く、
武芸もたしなんだ才色兼備の女性である。
「花の慶次」ではヒロイン。
某タイガーではななこなでしこ。
戦国BASARAではプレイヤーキャラと大人気。

土田御前(?~1594)

織田信長の生母。
信秀がもうけた十二男十二女のうち、
信長・信行・秀孝の3人を産んだ。
信行を溺愛し、
織田家臣団の反信長派の信行擁立につながったという。
本能寺の変の際には安土城にいたとされるので、
信長は決して母を憎んでいたわけではないらしい。

生駒吉乃(1528?~1566)

織田信長の側室。
はじめ土田弥平次に嫁いでいたが、
若くして没したため実家に帰る。
そこを信長に見初められ、
嫡男・奇妙丸(信忠)、次男・茶筅(信雄)、
そして長女・五徳の3人を産んだ。
正室である濃姫には子がなかったため、
側室ながら正室に近い扱いを受けていた。
ちなみに「決戦Ⅲ」の吉乃とは別人である。

織田五徳(1559~1636)

織田信長の長女。
母は生駒吉乃。
信長の奇抜なネーミングセンスを証明してくれる、
数多い子供達の一人である。
徳川家康の嫡子・信康の正室になるも、
姑・瀬名との不和から築山殿事件を招く。

織田冬姫(1561?~1641)

織田信長の次女。
母は不明。
若き天才武将・蒲生氏郷の正室。
氏郷が若くして病没した後、
言い寄る天下人・豊臣秀吉を拒んで尼となる。

織田永姫(1574~1623)

織田信長の四女。
母は不明。
前田利家の嫡子・利長の正室。
本能寺の直前に、
8歳で20歳の利長に嫁いだ。
子に恵まれず、
利長の弟・利常を養子に迎えて家督を譲った。

妻木煕子(?~1582?)

明智光秀の正室。
光秀の流浪時代を支えた糟糠の妻である。
一般に、光秀は側室を持たず煕子だけを愛したという。
(故人の名誉のために言及しておくが、
 決して衆道に走ったという意味ではない)

明智玉子(1563~1600)

明智光秀の三女。
細川忠興の正室であり、後の「細川ガラシャ」。
本能寺の変の際に細川家に幽閉され、
その2年間にキリスト教に帰依する。

細川藤孝(1534~1610)

明智光秀の盟友。
「古今和歌集」の奥義継承者である知性と教養の人。
足利義昭。
織田信長。
豊臣秀吉。
徳川家康。
目まぐるしい交代劇の中で、
常に敢てナンバースリー以下に徹して生き抜いた強かな男。
武将としての能力も決して低くはない。
信長さえも一目置いていた。
黒づくめの装いは、無害さを印象付けるためだとか。
「能ある鷹は爪を隠す」
この言葉が、ここまで似合う人間は他にいまい。
山崎の戦いでは、先を見越して光秀の誘いを断った。
戦後、髪を切って幽斎と号す。
阿国の愛人・名古屋山三郎とは懇意にしており、
彼を賛辞する歌を残している。
「かしこくな 身をかへにける うす衣  錦にまさる すみそめのそて」

蒲生氏郷(1556~1595)

近江六角氏配下、蒲生賢秀の子。
幼い頃に人質として織田信長の下へと送られた。
この氏郷を信長は一目で気に入り、
娘の冬姫を娶らせて重用している。
本能寺の変の際には、
信長の夫人や遺児を安土城から救出。
居城・日野城において篭城し、
明智光秀軍の猛攻から守り抜いた。
その後は羽柴秀吉に臣従。
小牧・長久手の合戦。
九州征伐。
小田原の陣。
これらの戦いで見事な働きを示し、
「天下取りの器量」と秀吉に激賞された。
朝鮮への出兵中に病死。
早世が惜しまれる。

名古屋山三郎(1572?~1603)

阿国の愛人。
出生は諸説あるがキャラクターズ真書に準拠。
織田信長の姪の子であり、天下一の傾奇者。
女性と見紛う絶世の美男子であったと伝えられる。
父は伊勢で信長の弟・信包に仕えていた。
その父が死んだ後、秀吉の配慮で京都で暮らす。
後に信長の娘・冬姫の夫である蒲生氏郷に仕えた。
九州征伐・小田原城攻めなどに出陣している。
九戸政実攻めでは一番乗りの功名を得た。
「槍士、槍士は多けれど、名古屋山三は一の槍」
こう謳われる武芸者であったのだ。
しかし、氏郷の死後(1595年)は浪人。
剃髪して宗円と号す。
後に還俗。
妹の岩が森蘭丸の末弟・忠政の側室であったため、
その縁で森家に仕える事となる。
後に同僚・井戸宇右衛門と斬り合い、死亡。
阿国が男装して「歌舞伎」を舞うようになったのは、
この事件がきっかけだったとも言われる。
今は亡き愛人を、せめて舞台の上で甦らせようと・・・。

井戸宇右衛門(?~1603)

歴史的にはマイナーだが、
歌舞伎の世界では山三郎を斬った事で有名な剛将。
妻は森蘭丸の母・営の姉妹または姪。
その縁あってか、本能寺の変の後は森長可に仕える。
長可の盟友・斎藤新五に仕えた歴戦の勇士であり、
森家家中でも一目置かれる存在となった。
後に同僚・名古屋山三郎と斬り合い、死亡。

森可成(1523~1570)

蘭丸の父。
織田信長の股肱の臣である。
その過去には諸説あるが、
無双では『元斎藤家臣』で落ち着いている。
信長に金山城をもらったのは1565年。
この際に一族で引っ越したのだから、
稲葉山攻めの時には蘭丸は信長の傘下である。
てか、赤ん坊である。
まあ・・・それはさて置いて。
運命の1570年に、可成は宇佐山城主となる。
宇佐山は京への道を確保する重要拠点。
当然ながら激戦区で、
真っ先に浅井・朝倉連合軍の標的となった。
連合軍2万8千。
可成の軍は3千。
何と可成は僅か500の兵を率いて突撃。
当然ながら討ち死にした。
ちなみに、宇佐山城は明智光秀に与えられた。

林営(1524~1596)

蘭丸の母。
後の妙向尼。
本願寺との対立の真っ最中に、
三男の兜に『南無阿弥陀仏』の前立てをつけた剛の者。
熱心な一向宗徒であり、
信長と本願寺との講和成立に一役買っているらしい。
栄の「上様にだってズケズケと物を言う」性格が、
三男・蘭丸こと乱丸長定に受け継がれている事は想像に難くない。

森長可(1558~1584)

織田信長嫡男・信忠の右腕的存在。
蘭丸の次兄。
通称「鬼武蔵」。
織田信長に「武蔵坊弁慶の再来」と呼ばれた剛将。
1570年に相次いで討ち死にした、
長兄・可隆と父・可成の跡を12歳で継ぐ。
初陣は16歳。
1574年の長島一向一揆であり、
信忠と共に一揆の平定に当たったのだが・・・。
「川向こうの敵ウザイ」
信忠の独り言を聞いて、長可は単身で川を越えて敵陣に一番乗り。
この単身で勝手に突撃する癖は終生続き、
何度も信忠の待機命令を無視しては信長に大目玉を食らった。

1582年。
信忠軍団の主力として、武田家滅亡に功あり。
24歳にして、上杉家への防壁である川中島を任せられた。
その後、本能寺の変が勃発。
長可は弟達の仇討ちに燃え、
川中島を引き払うも時既に遅し。
義父・池田恒興に従い、秀吉の傘下に入る事となる。
その際に、
織田信孝の人質となっていた末弟・仙千代を救うべく岐阜城に潜入。
(難攻不落の稲葉山と呼ばれた岐阜城である)
足枷を力任せに外し、
1584年の小牧長久手の合戦にも参加した。
例によって無謀な突撃を敢行したが、
戦国末期には最強を誇る徳川軍には歯が立たない。
あっさり敗北してしまった長可は、
心機一転して死装束を鎧の下に着込んで再出撃。
純白の死装束が目立ちまくって、
鉄砲で眉間を撃ち抜かれてしまった。
遺言の解釈は諸説あるが、
「娘のこうは医者の嫁にするべし」というのが通説。
ちなみに徳川家康は長可を「一騎当千」と評しており、
関ヶ原での合戦においては、
「あの鬼武蔵を破った我らが、石田や宇喜多などに敗れるはずがない」
と豪語したという。

森忠政(1570~1634)

蘭丸の末弟。
幼名は仙千代。
実は3人の兄達と同様に、
小姓として信長に仕えてはいたのだが・・・。
1582年、春。
信長の眼前で先輩をボコにし、親元に帰される。
不幸中の幸いと言うべきか、
この不祥事で本能寺の変を免れた訳なのだが。
長可の死後は家督を継ぎ、
後に羽柴・豊臣姓を名乗る事を許される。
その頃の名は羽柴右近だったりするらしい。
1600年には川中島へ移封。
かつて長可が上杉景勝を睨んだ海津城で、
忠政は真田昌幸の上田城を見張る事になった。
関ヶ原では真田攻めに従軍している。
後に大坂の陣にも出陣した。
ちなみに、死因は食中毒である。

筒井の「右近・左近」・・・筒井順慶の重臣。

松倉重信(1543~1593)

右近。
後、筒井氏が伊賀に移ると名張城主となった。

島勝猛(1542?~1600?)

左近。
筒井家を辞した後、羽柴秀長に仕える。
その後、
石田三成に棒禄の半分である1万5千石で召し抱えられた。
通称は「鬼左近」で、
関ヶ原の合戦において石田隊の先鋒として奮戦。
東軍諸隊の猛攻を良く支えるが、黒田長政隊の銃撃に遇った。
そして討ち死にしたとも生き延びたとも伝えられる。

お銀氏提供

戦国無双[武将]完全攻略