「北条家」

関東の雄として連綿たる家系を保った大老舗。
百年に渡って関東に覇を唱えた。
開祖は、今川家の食客から身を起こした北条早雲。
殺戮と奸計を繰り返し、伊豆・相模を平定。
小田原を本拠とする戦国大名にのし上がり、
北条五代栄華の基を開いた。
三代目・氏康の代には、
上杉謙信・武田信玄との間で三つ巴の関東争奪戦を展開。
氏政・氏直の代には関東をほぼ統一するも、
豊臣秀吉の小田原攻めに遇って滅んだ。


北条氏康(1515~1571)

通称「相模の獅子」。
関東に北条王国の金字塔を打ち立てた名君。
合戦において一度も敵に背を向けず、
傷跡は全て向かい傷であったという剛胆な男。
上杉謙信・武田信玄と互角に渡り合った稀代の名将である。
また温厚で寛大な人柄と卓越した民政手腕により、
家臣はおろか領民にまで慕われた。
内政面では検地の早期実施。
軍政面では堅固な支城情報網の構築。
綿密な家臣団編成に力を注いだ。
氏康が家督を継いだのは1541年。
西の駿河に今川義元。
北の甲斐に武田信玄。
海の向こうには里見義堯。
関東が風雲急を告げていた時代である。
後に河越夜戦の勝利により関東における優位を確立。
武田・今川と婚姻による三国同盟を結び、
いよいよ関東の完全制圧に王手をかける。
その前に立ち塞がったのが上杉謙信。
両者の激闘は20年の長きに渡る事になった。
しかし信玄が三国同盟を破棄すると、
仇敵であった謙信と手を結ぶ。
1571年に病没した。

北条氏政(1538~1590)

氏康の嫡子で、北条の四代目。
偉大過ぎる父に対して、無能や凡庸という評価が多い。
大局を見極められず、秀吉の実力を甘く見ていた。
筆頭家老松田憲秀の秀吉への内通を許してしまう。
1590年の小田原攻めで北条家を滅亡させてしまったために、
「ダメなお坊っちゃま」感は拭えない。
しかし実際には家中を巧みに統率して、
徳川・上杉ら強敵と互角以上に渡り合っている。
不敗の名将であった父の影に埋もれているが、名君であった。

北条氏直(1562~1591)

氏政の嫡子で、北条の五代目。
1580年に家督を継ぎ、北関東制圧に着手した。
秀吉の天下が目前に迫ると、伊達・徳川と結び、これに対抗。
再三の上洛命令を無視したために小田原の役を招いた。
戦後、自刃を申し入れるも許されず、高野山に追放される。
ほどなく病死した。

北条氏照(1540~1590)

氏康の三男で、武蔵滝山城主。
北条軍団の中心的存在。
兄・氏政の片腕として軍事・外交に活躍した。
秀吉の小田原攻めに対しては弟・氏邦と共に徹底抗戦を主張。
家中随一の戦上手であったが、敗戦後に自刃した。

風魔小太郎(生没年不詳・最後の小太郎は1603年に死没)

伝説的な忍者集団・相州乱破風魔一党の頭領。
風魔一党の頭領は代々「小太郎」を名乗るが、
いずれも容貌魁偉な大男であったという。
北条氏の勃興時に雇われて以来、
情報収集や敵地撹乱に奔走して北条五代の治世を支えた。
秀吉の小田原遠征で北条家が滅びると、家康着任後の江戸に入る。
盗賊として開発途上の江戸の町を騒がせた。



「○○天王~北条家篇~」

北条五色備・・・北条氏康の陣立ての中心

北条綱成(1515~1587)

黄レンジャー。
「花倉の乱」にて義元に反目した今川家臣・福島正成の子。
父が武田の原虎胤に討たれた後、
北条氏康の父・氏綱に援助を得て小田原で養育される。
その後、氏綱の娘を娶って北条一門に迎えられた。
武勇の誉れ高く、外交手腕も卓越。
その生涯を北条家に捧げた名臣である。

北条綱高(?~?)

赤レンジャー。
元は伊豆半島の豪族であったが、氏綱の養子となる。

富永右衛門尉(?~?)

青レンジャー。

笠原康勝(?~?)

白レンジャー。
北条家譜代の重臣・松田家と縁組みを結んでおり、
北条家臣団の中でもかなりの力を持っていた。

多目周防守(?~?)

黒レンジャー。



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