伊達家

藤原氏の末裔で、鎌倉以来の奥羽の名族。
初代・朝宗が源頼朝の奥州征伐に従軍して戦功を挙げ、
伊達郡を与えられたことが姓の由来である。
戦国期に入ると14代・稙宗が奥州守護に任じられ、
奥州の覇者をめざして版図拡大に乗り出す。
そして15代・晴宗は奥州探題に任命され、
蘆名盛氏と並んで東北を代表する大名に成長した。

田村愛姫(1568~1653)

『めごひめ』と読みます、念のため。
福島の名門・田村家の三春城主、清顕の娘。
(征夷大将軍・坂上田村麻呂の子孫)
命名の由来は、東北弁の「めんこい」。
11歳で嫁いだ、伊達政宗の正室。
容姿端麗で和歌や書道に長じたと言う。
秀吉の小田原征伐の後、人質として京都伏見へ。
次いで江戸に移る事となる。
大人しくも芯の強い女性であったらしい。

最上義姫(1548~1623)

上記の義光の妹であり、政宗の母。
その激しい気性と体格から「奥羽の鬼姫」と呼ばれた。
対峙する伊達軍と最上軍との間に輿を乗りつけ、
両軍ともに兵を退かせた事もある。
戦国時代には珍しい、行動力に富んだ女性であった。

猫御前(?~1612)

飯坂城主・飯坂宗康の娘。
伊達政宗の比較的早くからの側室。
飯坂の局、吉岡の局、新造の方とも。
鼠を追い払う様が猫に似ていたから猫御前と呼ばれた。
政宗の最初の側室であり、
庶長子・秀宗を産んだ事は有名だが、
本人に関する歴史的資料は殆ど無い。

伊達五郎(六)八姫(1594~1661)

伊達政宗と愛姫の長女。
通常は「ごろはち」と読むのだが、
彼女の場合は無理矢理「いろは」と読む。
母親似の聡明な美人であったとも、
政宗を「男だったら」と嘆かせた女丈夫ともいう。
徳川家康の六男・松平忠輝に嫁ぐも、
幾度も謀反を企てた忠輝は家康の遺言により勘当。
五郎八は離縁して仙台に帰る。
この22歳でバツイチになった娘を政宗は溺愛し、
弟の二代藩主・忠宗も何かと頼りにしていたという。
キリシタンであったともいわれ、再婚はしなかった。


「○○天王~伊達家篇~」

伊達三傑・・・伊達政宗の飛躍に貢献した名将

片倉小十郎景綱(1557~1615)

政宗が梵天丸と呼ばれていた幼児期から仕えていた股肱の臣。
伊達軍団の参謀総長であり、政宗の軍中に景綱ありと名高い。
その勇武知略は秀吉・家康にも認められた。
「無印」のムービーに出てる人。

伊達成実(1568~1646)

政宗の祖父・晴宗の弟・実元の息子。
政宗より1歳年下の叔父さんという事になる。
伊達家随一の猛将と謳われ、
小十郎と共に伊達の両輪として活躍した。
兜に戴く毛虫の前立ては、
「決して後戻りはしない」という信条の現れ。
政宗が秀吉に小田原参陣を命じられた際には、
徹底抗戦を説いたように激情家として知られる。

鬼庭綱元(1549~1640)

政宗が幼い頃から傅役(主君の子の世話役)として仕えた。
知謀を巡らせた小十郎。
戦陣で武勇を発揮した成実。
二人に対し、縁の下の力持ちであったのが綱元である。
伊達家奉行の職にあり、
領国経営全般や外交を一任されていた。
また、合戦でも卓抜した才能を発揮。
伊達軍の疾風迅雷な機動力の影には、
この名補給長官の存在があった。



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