なか(1513~1592)

羽柴秀吉の母。
織田信秀の足軽であった木下弥右衛門に嫁ぎ、
長女・ともと長男・日吉丸(後の秀吉)を産む。
夫との死別後は筑阿弥と再婚し、
次男・小竹(後の秀長)と次女・朝日(旭)姫を産んだ。
秀吉の関白就任によって「大政所」と称される。

浅野ねね(1548~1624)

羽柴秀吉の正室。
織田家に仕えたばかりの秀吉に嫁ぎ、
その出世を内助の功で支えた。
秀吉の関白就任にともない、
従三位に叙されて「北政所」と呼ばれる。
ちなみに忍者だったという史実はないが、
秀吉が忍者の出身であったというトンデモ説はある。

朝日(旭)姫(1543~1590)

羽柴秀吉の異父妹。
貧農と結婚するも死別。
秀吉家臣の副田甚兵衛と再婚するも、
徳川家康との政略結婚のために離縁を強いられる。
甚兵衛は切腹。
徳川家でも人質扱いと、不遇な生を受けた。

羽柴豪姫(1574~1634)

前田利家の四女であり秀吉の養女。
数多い養子の中で、最も秀吉に愛された子供。
同じく秀吉の養子であった、
五大老・宇喜多秀家の正室となる。
熱心なキリシタンであり、洗礼名はマリア。

「○○天王~豊臣家篇~」

豊臣五奉行・・・豊臣政権における政治の執行機関。

石田三成(1560~1600)

二代目・五奉行筆頭。
かつては貧しさ故に寺小姓となったが、
三杯の茶を羽柴秀吉に出した事で運命が急転した。
近江長浜城主であった秀吉に、
非凡な才能を見出されて近侍に取り立てられる。
生マジメな性格で、
その滅私奉公の勤めぶりから秀吉の寵愛を受けた。
賤ヶ岳の合戦では沿道に松明を用意させるなど、
地味ながらも裏方として絶妙な仕事を果たす。
朝鮮の役では何十万という補給物資を運んだ。
こうした活動がなければ軍は成り立たず、
似た役割を果たしていた秀吉には仕事を評価されている。
・・・が、
武断派には「高みの見物」と悪印象を持たれていた。
それが災いしてか、
秀吉の遺児・秀頼を傀儡とする陰謀の人とみなされる。
よって豊臣恩顧の大名からも見放され、関ヶ原の合戦に敗北。
斬首される事となった。
ちなみに姑息な悪人というイメージが根強いが、
そうした風評は江戸時代中期に広まったものであるらしい。
「天下の副将軍」徳川光圀(水戸黄門)も、
「石田三成は義臣である」と「桃源遺事」で高評価を与えている。
(光圀は「史記」を読んで不良から更正した男で、
 紀伝体の歴史書である「大日本史」の編纂に携わっている)
三成の実像は、
「正義」という信念を貫き続けた忠義の士であったらしい。
領民からは慕われていたし、
有名な「秀次事件」でも細川藤孝と共に秀次の助命を嘆願していた。
(「秀次事件」が三成の陰謀であったとする論拠は、
 総じて徳川政権が確立した後に書かれた史料である。
 よって、徳川家の正当性を否定する文章は書けないという!
 「成実記」を著した伊達成実も、徳川家には逆らえませんや)
結局、三成の最大の欠点は「正義」を盲信していた事に尽きる。
己の信じるものが、全ての人にとっても正義であると。

浅野長政(1547~1611)

初代・五奉行筆頭。
もとは安井氏。
羽柴秀吉の正室・ねねの妹を娶り、浅野家を継ぐ。
華々しい槍働きこそないが、
秀吉の下で民政や兵站に手腕を発揮した。
秀吉の死後、徳川家康の暗殺を企てた疑いから甲府に謹慎。
関ヶ原の合戦には参戦しなかったが東軍に属す。
戦後は嫡子・幸長に家督を譲り、
江戸で家康の囲碁の相手を務めたという。

前田玄以(1539~1602)

かつては比叡山延暦寺の僧であった。
還俗して織田信忠に仕え、
本能寺の変の際には信忠の嫡子・三法師(秀信)を守る。
その後、豊臣政権下では京都司代を務めた。
関ヶ原の合戦では西軍に属したものの、
三成の挙兵を家康に通報する事で所領を安堵される。

長束正家(1557?~1600)

初めは丹羽長秀に右筆として仕え、
有能な官吏「天下無双の算術」と称えられた。
長秀死後、天下人・秀吉の吏僚となる。
「太閤検地」を担当するほか、
九州遠征・小田原征伐・朝鮮出兵といった大作戦の兵站を担当。
計数の才を縦横に発揮した。
関ヶ原の合戦では西軍に属すが、
裏切った吉川広家に阻まれて戦闘を行えず水口城に帰還。
敗戦後、開城して自刃した。

増田長盛(1545~1615)

近江出身で、秀吉に仕えて官吏として才能を発揮した。
石田三成らと共に検地奉行を務め、
後に長束正家と天下の財政や知行割を司る。
朝鮮出兵には三成と共に軍奉行として渡鮮。
行政・軍務を掌握するが、諸大名との軋轢を生む。
関ヶ原の戦いでは西軍に属し、所領を没収された。
その後、子の盛次が大坂の陣で豊臣方についたため自害。



豊臣五大老・・・豊臣秀頼の後見役(隆景が没したため『五』)

徳川家康(1542~1616)

最後の最後に天下を掴んだ、戦国最強の将。
幼名は竹千代。
今川家に人質に出される途上で、
織田勢にさらわれてしまったのは5歳の頃。
織田信長の庶長兄・信広が今川勢に捕らえられ、
その人質交換に至るまでの2年程を織田家で過ごした。
当時13歳の悪ガキであった信長とも、
面識くらいはあったと思われる。
その後、今川家の人質として少年時代を過ごした。
成人してからの印象とは異なり、
様々な逸話を残したヤンチャな少年であったという。
後の辛抱強い性格は、
成人してから何度も直面した苦難に形成されたものか。
今川義元は竹千代を結構かわいがっていたようで、
己の師である天才軍師・太原雪斎に師事させている。
竹千代が元服した際には『元』の字を与えた。
松平元康。
『三河の鷲』と呼ばれる若武者の誕生である。

そして1560年の桶狭間の合戦。
元康は弱冠18歳ながら三河武士2500を率いて、
困難な戦局を割り当てられながらも見事に任務を果たす。
しかし、義元は討ち死に。
元康は仇討ちに燃え、織田諸城を次々と攻略した。
もっとも義元の嫡子・氏真は凡庸な男であり、
父の弔い合戦をするでもなく蹴鞠や歌に日々を費やした。
さすがに呆れた元康は今川家から独立。
徳川姓に改姓。
義元由来の『元』の字を捨て、家康を名乗る。
その力量と人格を評価した信長の誘いに応じ、
織田家と清洲同盟を結んだ。
信長の数少ない同盟相手として、多くの戦功を挙げている。
しかし信長が勢力拡大を果たした頃には、
その力を危険視され始めていたらしい。
家康の近隣にある武田信玄が、
信長との同盟を破棄して家康が脅威にさらされても、
大した援軍を回さなかった。
お互いに潰し合ってくれれば、それで良し。
そういう思惑があったようだ。
しかし家康は剛毅な男であった。
三方ヶ原では惨敗しながらも、
戦国最強の武田騎馬軍団に真っ向から堂々と渡り合う。
織田信長。
武田信玄。
二人の巨人の間で激しくもまれ、
家康は戦国最強の将へと成長して行く。

そして1582年。
本能寺の変より命からがら帰還した家康は、
動揺する織田家を横目に、
北条・上杉相手の三つ巴の旧武田領獲得戦を制す。
さらに信長の三男・信雄の要請を受け、
天下取りに足をかけた羽柴秀吉と小牧山にて対陣。
倍以上の軍勢と互角以上に渡り合うも、
外交戦を制した秀吉との決着は着かなかった。
後に秀吉と和睦すると恭順を貫き、関東入封を快諾。
着々と地盤を固めながら、諸大名の信頼を得ていった。
晩年の秀吉に筆頭大老に任じられる。
「儂の死後、息子の秀頼をよしなに」
そういった意味での任官であったが、
家康はこの頃には天下を狙い始めていた。
秀吉が秀頼以上の力を持つ大名が現れぬようにと禁じていた、
政略結婚による同盟を次々と成立させて行く。
1598年、秀吉死去。
家康に並ぶ大老であった、前田利家も翌年に死去。
必然的に、天下の趨勢は家康に傾いた。

そして1600年。
豊臣政権の安泰を図る、筆頭奉行・石田光成と関ヶ原で激突。
豊臣家武断派の光成への反発を利用するなどして、
大義名分と多くの名将を擁する西軍を破る。
建前の上では秀頼の後見という形をとり、
その実は天下を手中に掴む事となった。

1603年には征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開く。
1605年には三男・秀忠に征夷大将軍職を譲る。
これは征夷大将軍職を世襲制にした事を示し、
家康が天下人である事を高らかに宣言したものであった。
秀頼にも家臣としてこれを祝う事を命令している。
当然、これは豊臣家の反発を招く。
それがわからぬ家康ではない。
「己が健在なうちに、秀頼が幼いうちに、
 豊臣家を滅ぼしてしまおう」
こういった思惑があった。
豊臣家が先に手を出せば、大義名分は家康にある。
そうなれば、豊臣家を潰す絶好の機会だ。
だから挑発した。
それでも屈する事無く、挑発にも応じず。
豊臣家の実質的な家長である淀殿は賢い女性であった。
以後、家康は虎視眈々と豊臣家を狙い続ける。
そして1614年の方広寺事件。
「『国家安康』は家康を二つに裂き呪い、
 『君臣豊楽』は豊臣を君として楽しむと読む」
家康は梵鐘の銘文に対して難癖をつけ始めた。
凄まじい屁理屈である。
無論、これは家康の豊臣家に対する挑発であった。
その後も陰謀を巡らせ、
豊臣家を挙兵せざるを得ない所まで追い込む。
思惑通りに大坂の陣が勃発した際には、
とうとう豊臣家を滅ぼして天下の完全統一を果たした。
1616年。
戦国の終焉を見届け、家康は息を引き取った。
彼が築いた徳川幕府の統治は264年に及ぶ。

ちなみに家康は大の健康マニアであったが、
豊臣家滅亡後はハメを外して「健康に悪い」天ぷらを暴食。
死因はこれだったらしい。

前田利家(1538~1599)

前田慶次の義理の叔父。
信長親衛隊たるエリート集団「赤母衣衆」が一。
傾奇者として名高く、
若き日は6メートルの槍を持ち歩いていたという。
「戦国BASARA」ではプレイヤー武将になった。
彼が出世したのは武によるものではなく、
常に仲間内でのケンカを宥める穏和な人格による所が大きい。
若き日にヤンキーぶりがたたってリストラされ、
その後の貧乏暮らしでマジメなサラリーマンに更正したのだ。
ちなみに貯金が趣味で、それを嫁さんのまつに説教されている。
秀吉政権では、秀吉の片腕として尽力。
「百姓あがり」と侮られがちな秀吉を支え続けた。

毛利輝元(1553~1625)

元就の嫡孫。
早世した毛利隆元(元就の嫡男)の嫡子である。
偉大すぎる祖父。
有能すぎる叔父たち。
この3人と比較され、
「覇者の器ではない」とあげつらわれるのも致し方なし。
御人好しな性格が災いし、
関ヶ原では西軍の総大将に祭り上げられる。
(五大老のNo.3だったから、
 徳川家康・前田利家の次に偉い方だったんですよ!)
御存知のように、西軍は敗北。
120万石の大身代が37万石に減封された。

宇喜多秀家(1572~1655)

備前の梟雄・宇喜多直家の次男。
秀吉の養子となり、同じく養女であった前田豪姫を娶る。
秀家が8歳、豪姫が6歳の日の事であった。
その後、10歳で宇喜多家の家督を相続。
実父とは正反対の篤実な性格で人望はあったが、
夫婦揃って養父譲りの浪費癖があったために財政を圧迫。
家臣団の分裂を招いてしまう。
関ヶ原の合戦では西軍に属し、敗戦後は流転。
敗走して伊吹山中に隠れ、
変装して薩摩へ逃れて島津家に匿われる。
島津忠恒の助命嘆願もあって、
久能山に幽閉された後に罪一等を減じられた。
八丈島へ二人の子と共に流罪となったものの、
実家に帰った妻達からの仕送りもあって愉快に過ごしたらしい。

小早川隆景(1533~1597)

元就の三男。
父の資質を最も良く受け継いだ智将で、
『毛利の両川』の右翼として活躍した。
11歳で瀬戸内水軍を擁する小早川家の養子となり、
17歳で本家を相続する。
武将としての資質。
政略家としての手腕。
それらの多くを父・元就から受け継ぎ、
うららかな春の楊柳に例えられた。
文禄の役でも勇戦し、
その武名を海外にまで轟かせた。

上杉景勝(1555~1623)

上杉謙信の姉・千桃院の息子。
超がつく程の無口で、
家臣達に笑顔を見せた事が無いと伝えられる。
天才軍師・直江兼続と共に、
叔父・上杉謙信の威光を天下に知らしめた。

明石全登(?~1618?)

五大老・宇喜多秀家の筆頭家老。
神出鬼没のクリスチャン・ジェネラル。
洗礼名はジョバンニ・ジュストなど。
熱心なキリスト教信者で、
いつでもどこでも布教活動をしていた猛者。
息子も宣教師だ。
関ヶ原での敗戦後は行方不明となるも、
1614年「大坂冬の陣」では豊臣方として再び姿を現す。
徳川幕府によるキリスト教禁制の時世で、
キリシタンに寛容を示したのは反徳川の豊臣家だけだったのだ。
(大坂五人衆の一人となる。
 他に真田幸村・長宗我部盛親・毛利勝永・後藤又兵衛)
大坂の陣では十字架とイエス像を掲げた部隊を率いて奮闘。
徳川軍に突撃した後、再び行方不明となる。
その後の動向は諸説あるが、詳しい事はわかっていない。

大谷吉継(1559~1600)

石田三成の親友であり、真田幸村の正室の父。
(娘の名は「太閤立志伝」で安岐、
 「信長の野望」で渓とされている)
戦国随一の高潔の士である。
ハンセン病に罹っており、
顔面と頭部を浅葱色の薄布で巻いていた。
関ヶ原の頃には病状が悪化し、
殆ど視力を失っていたが竹興に乗って軍を指揮している。
そもそも秀吉に仕えた時期には諸説あるが、
有力な所では滋賀県出身で長浜時代に仕えたとか。
(石田三成が推挙したという説も)
秀吉の側小姓から順調に出世し、
1583年「賤ヶ岳の合戦」でも大活躍。
七本槍に次ぐ槍働きを見せる。
その後、親友・三成と共に吏僚としての道へ。
誠実な働きぶりと高潔な人格が、
周囲から認められて人望を集める。
関ヶ原では親友・三成のために奔走。
病をおして戦場に出、
徳川家康に内通した小早川秀秋の大軍を二度も押し返す。
しかし三度目には蹂躙され、
宇喜多・小西・・・そして本隊の石田三成隊は壊滅。
これを見届け、切腹して果てた。
どこまでも友情に殉じた義侠の士であった。

真田幸村(1567~1615)

本名は信繁。
川中島に散った、武田信玄の弟の名を頂きました。
幸村は通称です。
良質な資料には記載されていない事から、後世によるものとも。
実際にゲームでの幸村のポジションにいたのは、
叔父の信綱・昌輝(騎馬軍団)や、
父の昌幸(信玄の愛弟子)でありました。

さて、1582年。
武田家滅亡後は、織田家に仕えていた昌幸。
本能寺の変で織田家の支配力が弱まった隙に、
北条家に身を寄せました。
が。
滝川一益から奪還した沼田城の引き渡しを命じられ、
北条家と敵対していた徳川家へ。
ところが、北条・徳川間で和睦が成立。
昌幸は微妙な立場に置かれる。
そして1585年。
所領関係のいざこざから、徳川家を出奔。
次男の幸村を人質に、上杉景勝に仕えます。
上田城の合戦が勃発した時にも、幸村は人質。
未だ初陣の機会が訪れませんなあ・・・。
翌年、幸村は豊臣秀吉の要請で上杉家を脱出。
大坂城で秀吉に仕える事となります。
人質の身とは言え、その才能と人柄を秀吉に愛されたそうです。

初陣は1590年の小田原攻め。
24歳の、かなり遅い初陣でありました。
1594年には、秀吉に豊臣姓を下賜されました。
石田三成の盟友・大谷吉継の娘を娶ったのも、丁度この頃。
その縁でしょう。
1600年の関ヶ原では、父と共に石田三成の西軍に参陣。
家康の三男・秀忠を上田城で迎え撃ちます。
結果、秀忠は関ヶ原に遅参。
家康の怒りは凄まじく、昌幸・幸村は切腹を命じられました。

これを救ったのが、兄の信幸。
己の命と換えても良いと、父弟の助命を嘆願したのです。
そのかいあって、昌幸・幸村は紀州高野山へと配流。
命だけは救われた事になります。
翌年、高野山麓の九度山に屋敷を建てて移住。
信之(関ヶ原の後に改名)の仕送りもあって、
穏やかな日々を送っていたようです。
とは言え、配流の身の寂しさが消える事は無かったのでしょう。
兄・信之に宛てた手紙には、
配所で老いる侘びしさが綴られています。
そして1614年。
屈指の徳川キラーとして名高い真田家。
その幸村の元を、豊臣秀頼の使者が訪れます。
大坂城への入城要請。
数えで48歳になっていた幸村は、
死に花を咲かせる覚悟でこれを承諾。
大坂城の南に出丸(真田丸)を築き、奮戦。
翌年の夏の陣では、赤備えを率いて家康を脅かしました。
家康本陣を三度に渡って強襲。
結局、幸村は念願果たせず銃弾に倒れました。
「古今これなき大手柄」
「日の本一の兵」
「ためし少なき勇士」
死後は英雄として讃えられ、
武勇談が長く語り継がれる事となります。
文字通り、最期に死に花を咲かせたのでした。

村松殿(1565?~1630)

昌幸の長女で、信之・幸村の姉。
真田家家臣・小山田茂誠の妻となる。
信之も幸村も、この姉を慕っていたようだ。
二人が彼女に送った手紙から、その様子が感じられる。

大谷渓(?~1649)

幸村の正室。
豊臣家奉行・大谷吉継の娘。
幸村が大坂に出仕していた頃に嫁ぎ、2男3女をもうけた。
関ヶ原の合戦後は、幸村の配流に従って紀州九度山で暮らす。
幸村の大坂籠城にも付き従うが、落城寸前に脱出。
晩年は娘・かね夫婦と暮らしていたと思われる。

真田阿梅(1604?~1687)

真田幸村の四女。
母は正室の大谷氏か。
(側室の高梨氏の説もあり。
 そうなると、
 産まれた順が三女のあぐりと入れ替わる)
父の大坂城入りに同行し、
落城後は伊達家家臣・片倉重長に保護される。
重長の正室が亡くなった後は後妻として、
前妻の娘・喜佐の長男を引き取って養育した。

真田十勇士

江戸中期に書かれた物語「真田三代記」をベースに、
明治末から大正にかけて出版された、
「立川文庫」により創作された架空の集団。
実在の人物ではないので、物語により設定もまちまち。

猿飛佐助(架空の人物)

甲賀流忍術の達人で付近に隠棲していた、
戸沢白雲斎から忍術を学び免許皆伝となる。
鳥居峠に猪狩りにきた幸村に見出され、家臣となった。
九度山へ赴き諸国を漫遊し、幸村の薩摩落ちにも同行した。
「無双2」では護衛武将・忍者として登場。

霧隠才蔵(架空の人物)

浅井長政家臣の遺児で、伊賀の百地三太夫に忍術を学ぶ。
(つまり石川五右衛門の兄弟弟子)
霧を自在に操る忍術を使う。
浅井家再興を願いながら山賊をしていたところ、
猿飛佐助と出会い佐助の主・幸村に仕えることになる。
ライバルの佐助と同様、幸村の薩摩落ちに同行した。
モデルは霧隠鹿右衛門。
「無双2」では護衛武将・爆忍として登場。

三好清海入道(架空の人物)

戦に敗れて流浪中に、
上杉家の人質となっていた幸村と出会い家臣となる。
大坂夏の陣にて奮戦後、自刎した。
モデルは三好政康。
「無双2」では護衛武将・突忍として登場。

三好伊三入道(架空の人物)

三好清海入道の弟。
戦に敗れて山賊となっていたところを、
兄・清海入道に勧められて幸村の家臣となる。
大坂夏の陣にて奮戦後に腹を切った。
モデルは三好政勝(別に政康の弟ではないが)。
「無双2」では護衛武将・突忍として登場。

穴山小助(架空の人物)

武田家家臣・穴山信君の甥であるという設定。
幼い頃に幸村個人の家臣となる。
九度山には同行せず、
天下の情勢を探るために姫路で漢方医を開業していた。
大坂夏の陣にて幸村の影武者として討ち死にした。
「無双2」では護衛武将・武者として登場。

海野六郎(架空の人物)

幸村の最古参の家臣であり、頭脳明晰で幸村の右腕。
九度山にも同行し、根津甚八と共に奥州の情勢を探っていた。
大坂の陣後は幸村・大助父子と共に、
豊臣秀頼の薩摩落ちに同行している。
ちなみに、海野家は真田家の源流である。
残念ながら「無双2」には登場せず。

望月六郎(架空の人物)

火薬の扱いに長け張抜筒や爆弾の製造に携わった。
甲賀を代表する名門、望月家と関係があると思われる。
大坂夏の陣にて幸村の影武者として討死した。
モデルは望月甚左右衛門または望月卯兵衛。
「無双2」では護衛武将・爆忍として登場。

根津甚八(架空の人物)

物語により設定は様々。
どうやらコーエーでは、
浅井長政の遺児であるという設定を採用している模様。
大坂夏の陣にて幸村の影武者として討死した。
残念ながら「無双2」には登場せず。

由利鎌之助(架空の人物)

丹波の豪族の長男で鎖鎌と槍の達人。
山賊をしていたが、幸村の家臣となる。
九度山へは同行せず、
徳川家康の動きを探るために江戸で槍の道場を開いていた。
幸村の薩摩落ちに同行している。
残念ながら「無双2」には登場せず。

筧十蔵(架空の人物)

元蜂須賀家家臣で、
蜂須賀家を訪れた幸村に惹かれ幸村の家臣となる。
種子島銃の名手。
幸村の薩摩落ちに同行した。
モデルは筧十兵衛または筧金六郎。
「無双2」では護衛武将・銃使いとして登場。

お銀氏提供

戦国無双[武将]完全攻略