「浅井家」

近江とは、源氏佐々木氏の治める地であった。
戦国時代には、近江北部を京極佐々木氏が。
南部を六角佐々木氏が治めていた。
・・・が。
後に京極家臣・浅井亮政が下克上。
朝倉氏の助力もあり、一代で北近江を制す。
ところが、二代目の久政は六角家の圧力に屈服。
浅井家と北近江は、その傘下に下る。
信長が桶狭間で今川義元を破った、
わずか3ヶ月後の事であった。
六角家の大軍を破り、浅井家が独立を果たしたのは。
これを成したのが、若き天才武将・浅井長政である。

浅井長政(1545~1573)

通称「北近江の鷹」。
理由は諸説あるが、一度は結んだ織田家との同盟を破棄。
織田信長の13の陣を11まで破った天才だったが、
同じく天才の義兄とは決定的な違いがあった。
徹底した合理主義者である信長に対し、
長政は義理堅くまっすぐな男であった事だ。
そして二人は対立。
1573年8月28日。
当てにしていた武田信玄が病に倒れる。
盟友の義景は戦下手。
この逆境を戦い抜いた長政も、ついに自害。
嫡男・万福丸も処刑され、浅井家の血筋は絶える。
秀吉に救出された、お市の3人の娘を除いては。

お市(1547?~1583)

織田信長の妹で、浅井長政の正室。
結婚した時期には諸説あり、為した子の数も同様。
取り敢えず、無双では「1男3女」ということになっている。
絶世の美女であり、織田家のマドンナであった。
(ちなみに背が高いモデルタイプの美人だったらしい)
浅井家滅亡時、お市は4人の子持ちにして26歳。
まだまだ若い未亡人である。
未だに織田家のマドンナとして、
政略結婚としての価値は申し分なかった。
信長が再婚させなかったのは、せめてもの償いか。
しかし、その信長も本能寺で死す。
お市は柴田勝家と再婚。
信長の三男・信考を擁して、秀吉に敵対するのだった。
何せ秀吉は・・・嫡男・万福丸の直接の仇であったから。
結局、後夫・勝家は秀吉に破れる。
お市もまた、勝家と共に自害して果てた。

浅井茶々(1567?~1615)

浅井三姉妹の長女。
言わずと知れた、後の淀殿。
稀代の悪女「淀君」としても知られるが、
この背景には徳川幕府の陰謀がある。
江戸時代初期は空前の「大阪浪人ブーム」で、
民衆は大阪の陣で豊臣側についた浪人達を英雄視していた。
三代将軍・家光ですら、
真田幸村の熱狂的なファンであったと言う。
これを重く見た徳川幕府は、大阪方に悪役を配した。
創られた悪役。
それが「淀君」であった。

浅井初(1570?~1633)

浅井三姉妹の次女。
かつて浅井に下克上され、
織田家に仕えていた京極高次の正室となる。
高次没後は落飾して常高院と称し、
豊臣家と徳川家の橋渡し役となった。
大阪の陣でも講和交渉の使者を務めている。
また、豊臣秀頼の遺児助命のために奔走した。

浅井江(1573~1626)

浅井三姉妹の三女。
秀吉の仲介で佐治一成に嫁ぎ、
秀吉の命令で信長の四男・羽柴秀勝に嫁ぎ、
秀勝死後、家康の三男・秀忠に嫁がされた。
千姫・家光を始め、二男五女をもうけている。

「○○天王~浅井家篇~」

浅井三将・・・浅井家の重臣

赤尾清綱(?~1573)

浅井亮政・久政・長政の三代に仕えた家老。
武勇に優れ、戦いを好まぬ久政を隠居させる。
浅井家の本城「小谷城」に「赤尾曲輪」という砦を設けた。
長政は清綱の屋敷で自害しており、
主君の死を看取った後は信長への降伏を拒否し自刃。

海北綱親(?~1573)

兵法に優れ、羽柴秀吉の軍勢を返り討ちにした。
浅井家が滅亡した際に討ち死に。
息子の国松は画家として大成し、「武人画家」と呼ばれた。
その国松を召し出すにあたり、
秀吉が「海北綱親は我が軍法の師」と語った逸話は有名。

雨森弥兵衛(?~?)

浅井家の旗頭。
特に久政に重用され、
文書を発行する「奏者」という役割にあった。



お銀氏提供

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