「島津家」
鎌倉から近世までの約700年に渡って、
鹿児島を本拠に南九州に覇を唱えた家系。
戦国期には九州最強の大名に成長した。
彼らの勇猛果敢な薩摩魂には、
あの秀吉や家康すらも恐怖したと伝えられる。
島津義久(1533~1611)
島津家十六代当主。
幼い頃は気が弱く、
「不肖の孫よ子よ、愚弟賢弟の生きたる見本よ」
と周囲を嘆かせたという。
父・貴久の悲願を奉じて、
薩摩・大隈・日向の三州統一を果たした野望の士。
更に有能な弟達や家臣団を率いて、疾風怒濤の快進撃を続ける。
耳川で大友宗麟を破り、島原で龍造寺隆信を破った。
九州全域の統一は間近であったが、
外交上手の宗麟が呼んだ秀吉の軍勢に敗れる。
義久は血気盛んな家中の反対を押し切り、
秀吉に降って島津家滅亡の危機を救ったという。
後に弟に家督を譲って隠居し、
関ヶ原の合戦後は徳川との交渉に当たった。
島津義弘(1535~1619)
義久の弟で、十七代当主。
もっとも、実は家督を継いではいないのだが。
通称「武略の義弘」。
その武略と豪勇ぶりで名を馳せた、直情果敢な猛将である。
九州統一をほぼ実現できたのも、
この義弘の武略によるところが大きい。
また、時勢を見定める事が早かった。
秀吉の九州遠征軍の到来。
その先鋒・羽柴秀長を打ち破って見せながらも、
勝機が無い事を見切って降伏した。
結果、義久は薩摩を、義弘は大隈を安堵される事となる。
後に朝鮮の役にも参加し、抜群の戦功を挙げた。
その武名は明国にも鳴り響いたという。
関ヶ原では東軍につこうとするも、
家康の腹心・鳥居元忠がこれを拒否。
やむなく西軍につく。
義弘は兵を動かさずに戦況を見ていたが、
小早川秀秋の裏切りによって西軍の敗色が濃くなると、
わずかな兵で敵軍の中央を堂々と突破して見せた。
これが世に言う「義弘の敵中突破」である。
島津歳久(1537~1592)
島津貴久の三男で、義久・義弘の弟。
通称「知謀の歳久」。
秀吉の九州征伐に抵抗し続けた豪傑。
弓矢での秀吉狙撃。
第二次朝鮮出兵への出陣拒否。
一揆の決行。
これらが秀吉の逆鱗に触れ、竜ヶ水で自刃した。
島津家久(1547~1587)
島津貴久の四男で、義久らの弟。
通称「兵術の家久」。
三千の兵で六万の龍造寺軍を破るなど、その軍功は数知れない。
九州征伐においても大友家を相手に激戦を繰り広げたが、
羽柴秀長が日向に侵攻して来ると降伏した。
その時の秀長との会見直後に急死。
一説には毒殺されたのだと伝えられる。
「○○天王~島津家篇~」
島津家になくてはならない四人・・・島津忠良(義弘の祖父)に絶賛された四人
新納忠元(1526~1610)
義久の側近であり、島津家になくてはならない四人の一人。
単なる武将の枠を越えた、知勇兼備の人であった。
通称「鬼武蔵」。
九州征伐の折には、義弘の撤退命令に
「ここで降っては薩摩に男がいないと笑われる」と反対。
この態度が秀吉を感服させている。
後に朝鮮に出兵した義弘に所領の留守を一任され、
出兵中の義弘と和歌を交わしたという歌人でもある。
肝付兼盛(1533~1578)
島津貴久・義久の家老で大隅加治木城主。
蒲生攻めや日向伊東氏攻めに従軍し軍功をあげた。
鎌田政年(1514~1583)
島津忠良・貴久・義久の家臣。
名は政房とも。
各地を転戦して軍功をあげた。
忠良から「永久に島津家はその功を忘れない」とまで賞されている。
川上久朗(1536~1568)
18歳にして、
当主・義久から守護代に任ぜられようとした程の才幹の士。
太刀・長刀・鎌槍を自由自在に使いこなした剛将であった。
堂ヶ崎の合戦において、
無謀な突撃を敢行する島津義弘を諫めるも聞き入れられず。
島津軍は敗走し、
この際に負った重傷のために久朗は息を引き取った。
お銀氏提供
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