「大友家」

豊後の戦国大名として、
北九州(福岡県の一都市にあらず)一帯に覇を唱えた。
戦国期に入っては、義長・義鑑・宗麟の三代で大きく飛躍。
宗麟の代には、北九州のほとんどを手に入れる。
九州侵攻をはかる毛利氏や、
九州制覇を目論む島津氏と激戦を繰り広げた。

大友宗麟(1530~1587)

大友氏の全盛時代を築いた名将。
決して武断の人ではないが、
一流の情報収集能力と外交術を有していた。
幼い頃は美しく、病弱な少年であったという。
二十歳で家督を継ぎ、北九州の大部分を取得した。
しかし宗麟の本領は軍事よりも政略や内政にある。
戦乱の中、宗麟は領内経営に力を注いだ。
ポルトガル商人との貿易。
学校・病院などの設立など、その枚挙にはいとまがない。
キリシタンとの関係が深く、
宣教師ザビエルを招いてキリスト教の保護に努めている。
キリスト教国との貿易を通じて興味を持っていたのか、
今山合戦の敗北を機にキリスト教への信仰を深めた。
1578年7月には洗礼を受け、
ドン・フランシスコという洗礼名を得ている。
1587年。
日向にキリスト教国家を興すべく、
夫人ジュリアや宣教師らを率い、十字架の軍旗を掲げて出陣。
島津軍と耳川で激突し大敗するも、その信仰心は生涯続いた。

立花道雪(1513~1585)

当初は戸次鑑連と名乗り、
臼杵鑑速・吉弘鑑理らと共に大友軍の中心として活躍した。
主君への諫言も厭わない剛直さと忠誠心の士である。
落雷に見舞われ下半身不随になりながらも、
家臣に担がせた駕篭に乗って戦場を駆け抜けた。
その勢いたるや疾風迅雷。
「雷の化身」と呼ばれた必勝不敗の合戦鬼である。
落日の大友家を見捨てる事なく、
島津家や龍造寺家の前に敢然と立ちはだかった。
37度の合戦で一度も負けた事がない、
戦国時代屈指の勇将として著名である。
1571年には、
4年前に宗麟を裏切った立花家の名跡を与えられた。
この時に入道して名乗った名が道雪である。
1575年に娘の誾千代に家督を譲るも、
その後の生涯すらも戦場で過ごした。
享年73歳。
病で没したのも戦陣であったという。
ちなみに。
入道した事から推察出来る通り、道雪はキリスト教反対派。
「所領の衰退は、
 キリシタンが寺社を破壊し神仏を川に流した罰である」
そう、宗麟を批判したという。



高橋紹雲(1548~1586)

大友譜代の家臣・吉弘鑑理の次男。
謀反によって追放された高橋家を相続。
立花道雪と共に武闘派として外交家・宗麟を支えた。
道雪の死後、いよいよ滅亡の淵に立たされた大友家。
これを好機と、島津義久率いる五万の大軍が押し寄せる。
紹雲は降伏を勧告されるも拒絶。
島津軍に多大な損害を与えつつ殉死した。
この激戦で島津軍の作戦は狂い、
羽柴秀吉の援軍が駆けつけるまでの時間を稼いだ。
紹雲は死をもって、大友家の滅亡を救ったのである。
武士の本道を全うした忠義の士であった。

立花誾千代(1569~1602)

立花道雪の晩年の娘。
道雪には跡継ぎがいなかったため、立花家の家督を継いだ。
1575年。
わずか6歳の女城主が誕生したのだった。
数年後。
道雪は高橋紹雲の嫡男・統虎に惚れ込み、
嫌がる紹雲から強引に統虎を婿養子とする。
後の立花宗茂。
「西国一の勇士」と謳われる事になる少年である。
1585年に道雪が病没した後は、
この若い夫婦が立花家を名実共に受け継いだ。
誾千代は色白の美貌ながら、
男勝りの激しい気性で剛勇を謳われている。
ちなみにゲームと同様に、
史実でも紫色の鎧を身に纏っていた。
秀吉の世では、
大友家の一重臣から秀吉麾下の大名に出世している。
関ヶ原では西軍に参加。
この機に乗じて天下を狙う黒田官兵衛から、
九州の街道を死守した。
戦後、夫・宗茂は浪人となり、
誾千代は肥後での隠棲生活を余儀なくされ2年後に病死。

立花宗茂(1567~1642)

実父・高橋紹雲と養父・立花道雪。
二人の才を受け継いだ、西国一の勇将。
1586年。
道雪没後、跡を継いだ宗茂。
父・紹雲の岩国城を突破した島津軍の大軍相手に、
圧倒的に不利な状況でありながら立花城で奮闘。
秀吉の九州征伐軍の来援まで巧みに時間を稼ぎ、
その到着後は撤退する島津軍に凄まじい追撃をかけた。
1590年の小田原攻めでは、
「東国に本多忠勝あり。
 鎮西に立花宗茂あり。
 共に天下一双の勇士なり」と秀吉に賞賛された。
朝鮮出兵でも勇名を馳せ、関ヶ原では西軍に属す。
西軍敗北により九州・柳川へ落ち行く道中、
実父の仇敵である島津義弘と遭遇。
敵陣を中央突破して来た義弘には、わずかな兵しか居ない。
仇討ちの絶好の機会と勧める家臣を、
「人の弱みにつけ込むような事は、武士のする事ではない」と一喝。
島津と協力して九州へ下ったという。
権謀渦巻く戦国にあって、
どこまでも誠実に生きた快男児である。
その後は徳川家康に仕え、
大阪の陣を経て柳川城に復帰した。
牢人から大名に返り咲いた男は、この立花宗茂のみである。



お銀氏提供

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